わがまち福島区

福島区の歴史

野田藤の由来から、福島区のまちの発展などご紹介します。  
 

福島区と野田藤

貞冶(じょうじ)3(1364年)には室町幕府の2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が富士の花見に訪れています。
また、文禄(ぶんろく)3(1594)年には太閤秀吉(たいこうひでよし)も、千利休(せんのりきゅう)曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)を供にして藤の花見に訪れ、茶会を開いたといわれています。
明治以後、野田藤は衰え、一時はほとんど絶滅したような状態でしたが、大阪福島ライオンズクラブが中心となって藤の再生運動を行い、昭和46(1971)年に藤家に残っていた古木に()()を行い成功しました。
今では区内各所で春に野田藤を見ることができるようになり、「区の花」にも指定されています。
明治時代の藤棚

 

 

藤棚

古くからこの付近には藤が群生(ぐんせい)していました。明治になって植物学者・牧野藤太郎(まきのふじたろう)博士によって「ノダフジ」と命名されました。

21人討死

天文(てんぶん)2年(1533)福島・野田を訪れた本願寺(ほんがんじ)第十世証如上人(しょうにょしょうにん)は、近江(おうみ)佐々木六角定頼(ささきろっかくさだより)の軍勢によって襲撃(しゅうげき)されました。
野田・福島の門徒(もんと)の百姓衆が(すき)(くわ)(かま)を持って敵兵に立ち向かい、証如上人(しょうにょしょうにん)(まも)るために命をかけて戦い紀州に逃しましたが、信徒21人が犠牲になりました。後に、このことを知った証如上人(しょうにょしょうにん)は、お礼を御書(ごしょ)にしたため、犠牲者の菩提(ぼだい)(とむら)いました。
21人討死の碑

21人討死之碑(にじゅういちにんうちじにのひ)
玉川4-5-17(玉川コミュニティセンター)

地図でみる福島区

明治時代の<ruby><rb>小字</rb><rp>(</rp><rt>こあざ</rt><rp>)</rp></ruby>地名入り地図

明治時代の小字(こあざ)地名入り地図

大正時代の福島区

大正時代の福島区

空襲直後の福島区

昭和 空襲直後の福島区

昭和22(1947)年に作成された、戦災を受けた直後の地図です。
黒く描かれているところが、空襲による消失を免れたところです。

空襲から6年(1953年頃)の復興状況

空襲から6年(1953年頃)の復興状況

地図上で黒く描かれた部分が市街地です。戦災からわずか6年でかなりの復興の様子がうかがえます。